小麦の収穫

 昨年秋に蒔いた小麦を2週間ほど前に収穫し、先週末、ようやく脱穀作業をしました。祖父が使っていたという古道具の木槌を使い、石の上でコンコンと叩くと、乾燥した穂から実がはずれてくれます。簡単な作業ではあるのですが、穂を揃えて叩き、実を振り落とし、また次の穂を揃え……、この繰り返しをやっていたら、土曜日の午後の時間をすべて使ってしまいました。途中遊びにきた隣の子どもと我が娘が、穂を揃えるのを手伝ってくれました(写真、右端が隣のまさみちゃん、中央が我が娘。左端が私)。
 実がはずれても、もちろん実を取り囲んでいた皮が混じっています。翌日の日曜日、学生と一緒にフィールドワークをやっている美和村の過疎地域へ行って、ある知り合いの農家の家で唐箕(とうみ)という機械を借りて(下の写真)、実だけをより分けました。手回しで風を送り、実と皮が混じったものを少しずつ落としながら、軽い皮だけを吹き飛ばすという昔ながらの機械です。1回ではなかなかきれいにはならず、2回3回と繰り返すうちに、きれいな実だけが落ちてきます。作業を手伝ってくれた農家のおばちゃんは、「少ないけどけっこういい実だね」と話してくれました。おばちゃんは、同行した娘に「お父さん、変わったことやるねぇ」とも話しかけていました。
 家に帰ってきて重さを測ったら約1.4キロでした。白い小麦粉にするには、まだこれから粉にひいて、なおかつ、ふるいにかけなければなりません。そうやったらたぶん1キロぐらいにしかならないでしょう。買えば数百円しかしない代物。しかし、私にとっては、生まれて初めて自分で作った小麦であり、お金の価値にはとうてい代えられません。娘と一緒にやった種まき、今の家を見つけるきっかけとなった麦踏み、新緑の季節に揺れた青い穂、そして収穫……、なかなか感慨深いものがあります。
 私たちは毎日のようにパンを食べたりうどんを食べたりしていますが、それらがこんな小麦からできているとは、どれだけの人がちゃんと知っているでしょうか。いやもちろん、そんなことを知らなくても生きていける(生きていけてしまう)世の中なわけですが、私たちは、あまりに知らないことに囲まれすぎているのではないでしょうか。生産と消費が完全分離してしまった社会の恐ろしさを感じます。
 かけた手間に比べると、1キロ余りの収穫はあまりに少ない。でも、その間にあった様々な発見や気づき、それこそが私にとっての本当の収穫でありました。

(2000年7月11日記)

追記 小麦のあとには、麦わらを倒した上に陸稲の苗を植えました。まだまだひょろっとした苗ですが、さて米も実を結んでくれるでしょうか。できあがれば、食卓を彩る黒米や赤米になってくれるはずです。